ズームイン靴

冷泉荘のフリーペーパー「月刊冷泉荘」に「ズームイン靴」と題しましたコラムを2023年4月号より載せてもらっています。冷泉荘のホームページにてデジタル版がご覧いただけます。

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電話番号変わりました。(2021/12/7)
新番号 070-8495-2716
お手数おかけしますが登録など変更くださいますようお願い申し上げます。

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返信メールが迷惑メール処理されてしまうケースが割と頻繁に発生しているようです・・・。もしメールを送って2,3日返事がない時はお手数ですが、迷惑メールフォルダをご確認いただくか、再度ご連絡いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

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教室の紹介動画を作っていただきました。
冷泉荘のYouTubeチャンネルにてご覧いただけます。

なんでクツを作っているのか3

小鉢一つで、とても満足する料理もあるのに、どうして冷凍食品のチャーハンは一袋食べても物足りないのか。支払っている対価の問題もあるかもしれないが、それは例えば甘味料やら香料やらで、ぱっと口に入れた時には美味しく感じるが、実質の部分に何か不足があって、舌は誤魔化せても腹は誤魔化せないのではないか?よくできたPU(ポリウレタン)レザーの如く、見た目はなかなかの雰囲気があったとしても触っていて気持ちがよくない、みたいに、自然物とそのイミテーションの違いを身体はわかっているのではないか。そうなると、お手軽冷凍チャーハンはもしやバーチャル・チャーハンなのではないか。フェイクミートなんていうモノもでてきているけれども、そのうち脳を電気刺激でビリビリッとして、ステーキ美味しい! という腹の膨れない未来が来るのだろうか。食べ物は、それは身体をつくる材料ですから、半分バーチャルなチャーハンだとすると、お腹の満たされない感覚とともに、自分自身もそのようなものに侵食されて、空虚になってしまうのではないか、という漠然とした不安を覚えます。全体と部分は相似形というフラクタル理論に照らしてみれば、この上辺をてらったモノを許容することは、それが生きていることの実質、感覚を希薄にしてしまうのではないかと考えてしまうわけです。では、まがい物でない美味しいモノであればいくら食べても大丈夫なのかというと、何でも食べすぎたら病気になりますよね。果たして、クツに当てはめた場合、ものすごいフィット感のクツがあったとして、ものすごく歩きやすいクツがあったとして、それを履き続けたら、それは身体にとっていいことなのか。刺激が快感であるのなら、裸足でもタイヘンな刺激だし、人間は裸足でも歩けるのに、素足でないのは何でだろうか。ハイヒールの人がハンカチを落とすと、フラットヒールの人が落としたときよりも拾ってくれる人が多いとか、バーで一人、ハイヒールの人は、フラットヒールの人よりも声をかけられやすいとか、というような実験の話がありました。クツはただの武器なのか罠なのか?とりあえずコックが味音痴ではしょうがないので、身体の感覚を鋭く、センサーを磨けるだけ磨いていけば、いいクツができるのではないかと考えてもきましたが、心地よい刺激とは、ちょうどよい刺激とは一体何なのか。実はそんなことは二の次で、クツは漢字では「靴」、革へんに「化」と書きますので、革に化かされてるだけなのか、革で何かを化かそうとしているだけなのかと考えてしまいます。とりあえず、自分の手で作ってみたら、そのあたりの、何が盛られているとか、疑い深くなれるのであれば、それはいいことではないかと思うのです。

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いつもどおりの朝でしたけど、なんと今日は工房を開いて丸10年、11年目に入った日なのです。せっかくなので何か書きます。文章はあとあと本人も、あーなるほどと思ったりすることがあるのです。

クツ教室で初めて自作のクツで歩き回って「なんて楽しいんだ」と思って15年、クツ学校で、工房の名は「注文靴 五十歩百歩」にしようとか同期と軽口を叩いて13年、近年は、「あなたはどうしてクツを作りたいのか、作って欲しいのか」という圧を発する謎の工房になっていたにもかかわらず、教室も長い人は8年、9年、どうして通ってくれているのだろう?と聞いたことはありませんが、日々のスパイスになっているのであれば、それは嬉しくありがたいことです。

さて1年ぶりに書いているわけですが、前回書いた内容について、なんと間抜けなことに数ヶ月前、今更気付いたことがあったのです。ここ2年くらい履いているワラーチのご利益なのかどうか、それはワタクシはクツを履かなくても歩けるということです。ワタクシの足は30年に渡る不摂生の結果であると思われる「外反足」で、「ほぼ治らない」と言われてばかりのトラウマなのか、クツでもってなんとかしてやろう、しなくてはという強い思い込みをいつの頃からか抱えていたことに気が付いておりませんでした。もう見られなくなってしまいましたが、師のホームページで引用されていた「知ることは感じることの半分も重要でない」(レイチェル・カーソン)という言葉を思い出し、瞬間、なーんだ妄想と戦っていただけなのかもしれない、と力が抜け、いそいそとまた木型をいじりだしたのでした。

というわけで、依然、興味の方位磁石はクルクルと定まらないものの、なんとなく心境に変化があったようです。「普段着がいちばん美しく、また美しくなければならない」という師匠の言葉、世の中がなんとなく危うい雰囲気になりつつある今、「なにやってんだ!」と散々怒られたことを思い出し、なにか大きな宿題があったりするのかなぁと考えている今日この頃でした。